有心会からのお知らせ

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山本肇先生のご逝去を悼む(平賀聖悟先生、福島俊士先生執筆)

山本 肇先生のご逝去を悼む

有心会名誉会長 平賀聖悟

 

 東京医科歯科大学剣道部の第4代部長をお務め戴き、かつ東京医科歯科大学の元学長でもあられました山本 肇先生が本年(2022年)2月16日にご逝去されました。

 

12月の写真が先生とご一緒の最後となってしまいました』

 

 1~2年来先生の入院のお知らせに接し、福島君とお見舞の機会を計っておりましたがコロナ禍のため、なかなかお訪ねできなかったのですが、昨年10月先生のご長女の佐藤郁子様より山本先生が老人ホームソナール目白御留山にご入居されたというお知らせを戴きました。コロナの状況や施設の対策(面会禁止等)を窺っていたところコロナ第5波が収まり、面会のまたとないチャンスということで12月5日日曜日の午後福島君と一緒に老人ホームへお訪ねしました。郁子様とは連絡が良くとれており、山本先生の好物等をお伺いしたところ、お煎餅や甘いお菓子等もお好きとのことなので2人で持参し、郁子様も当日ホームで合流しました。

 

 この時先生は大変お元気で、口数は多くはなく言葉も明解というわけではありませんでしたが、持参のお菓子を摘みながら上機嫌であることが見てとれ記念写真を撮りました(写真)。

2021年12月5日 ソナーレ目白御留山にて(山本先生96歳と)

 

郁子様より先生が大事にしている写真を見せて戴きましたが、それは剣道部の写真で山本先生(当時監督)を真中に全員稽古着姿の集合写真であり、如何に先生が剣道部に愛着をお持ちであったかがよく判りました。

 2時間ほど楽しく過ごさせて戴き、次のご訪問を約束してお暇しましたが、12月の写真が先生とご一緒の最後となってしまいました。

 年が明け新たなオミクロンによる第6波を心配しておりましたところ、2月16日に山本先生の急逝を知るところとなりました。老人ホームでコロナクラスターが発生し先生も2月5日に発熱し、PCR陽性となったので医科歯科大学病院へ入院、症状も落ち着き2月16日午前10時頃退院の準備をされていた時にご逝去されたと伺いました。病気の極期で苦しむことも無く、むしろご寿命であり山本先生らしく大往生されたものと理解しております。

 葬儀はご家族様で済まされ3月5日には後楽園駅に近い源覚寺の小石川墓陵で関係の深い方達をお招きしたお別れの会が行われました。

山本肇先生のお力添え無くしては剣道部の発展はなかったものと思います』

 山本先生の剣道部へのご貢献については書き尽くせないものがあります。無から立ち上がった東京医科歯科大学剣道部について、学生のクラブ活動であるので、学生が主役と言ってよい訳ですが、学生のみでは大学という組織の中では限界もあるので、教官の立場から剣道部の確立や発展に無条件でご尽力を賜った先生方の存在は欠かせません。特に剣道同好会から始めた草創期においては教養部で寺川博典先生、学部では山本 肇先生のお力添え無くしては剣道部の発展はなかったものと思います。

 1963年に教養部において剣道同好会が発足し、翌1964年には私達も学部へ移ると同時に剣道部へ昇格しております。この時点で歯学部口腔病理学助教授でありました山本先生が道場へお見えになり、その契機は定かではありませんが、当時の吉田栄治師範から情報提供されたように思います。2013年の水鑑第13号(50周年記念号)にこの頃の板張り青空道場のことを書かれており、1966年に東北大学歯学部(1970年歯学部長)へ移られてからも1968年の水鑑第2号へ寄稿されており、東北大学歯学部剣道部の創設を相談され、医科歯科大学剣道部の草創期にも触れ、再び竹刀をとることを記されております。

先生の剣風は合気道を思わせる身のこなしでありました』

先生との思い出は書き尽くせませんが、特に印象に残っていることを書き残してみます。 剣道部にいらっしゃった頃、道場で実際に防具を着けられ手合わせして戴いたことがあります。先生は確かお若い頃合気道も学ばれ、第一人者の植芝盛平翁の教えも受けられたとお聞きしたことがありますが、先生の剣風は合気道を思わせる身のこなしでありました。また稽古のあと、時に呑み会に連れていって戴きましたが、丁度給料日に当っており胸ポケットから無造作に給料袋をとり出して奢って戴き仰天したのも思い出です。1967年の正月には福島君と一緒に文京区のご住居へお招きを受け、捜しながらお伺いしたところ音羽町鳩山御殿の中で、この頃のエピソードは1983年刊の水鑑第6号に福島君が記しています。

山本先生は剣道部にとって恩人です』

 山本先生は1991年に東京医科歯科大学学長に就任されており、その後「レーザー照射による齲蝕予防その他歯科応用に関する研究」で学士院賞を受賞され2001年には剣道部・有心会として細やかな叙勲祝賀会を開催させて戴きましたが、学士院賞の副賞は学生のため、剣道部のためにと学部道場のエアコンの整備に寄付して戴きました。また、学長在任中に歯学部の剣道部員が不幸にして外傷による脊髄損傷となってしまい、その後の勉学や卒業に大変心配な状況に陥りましたが、山本先生のご配慮のおかげで実習等も続けられ歯科医になれたことも聞いております。

 山本先生は剣道部にとって恩人です。大勢の剣道部関係者の中で直接医科歯科大学を卒業された大先輩であり、先生との交流から何よりも学生を大切に思い育んで戴いたことが実感され、心から感謝申し上げます。

 山本 肇先生、本当に有り難うございました。先生のご冥福を心からお祈り申し上げますと共に今後も天国から末長く後輩一同をお見守りください。

2022年3月26日

 

追伸

   山本先生追悼文の最後に「有り難うございました」という御礼の言葉を一言入れたのは、これが山本先生のご希望であったからです。

 以前、先生が有心会の会合に出席された時、同席のテーブルで道場のエアコンのご寄付(学士院賞の副賞数百万円)等に話題が触れ、何か恩返しをしたいという話題の中と思いますが、山本先生は「何もしなくて良い、自分が逝ったら(柩の前で)ひと言『有り難うございました』と言ってくれれば良いのだ」とおっしゃいました。

今回、コロナ禍の中のため(当初は安置されていた墓所の訪問を予定しましたが)先生の柩に接することが出来ませんでしたので、文書の中で先生のご希望通りに対面した積もりで御礼を申し上げたのです。なお、この時と思いますが、ご高齢を自覚された上で東京オリンピック(2020)までは生き延びて是非観たいと申され、見事達成されました。

 

山本 肇 先生、ありがとうございました!

有心会名誉副会長 福島 俊士

 

 山本 肇先生をお茶の水の旧歯学部校舎2階西側の歯学部病理学教室に初めてお尋ねしたのは、私どもが学部に進学した昭和39年春、同好会から部に昇格した直後だったと思う。陸軍予科士官学校卒の経歴をお持ちの先生に剣道部長をお願いするためであった。当時先生は38歳で病理学教室の助教授でいらした。それから先生が新設の東北大学歯学部教授として転出される昭和41年10月までの約3年間、公私にわたってお世話になった。通常の稽古はもちろん合宿にも数回参加してくださった。夏のデンタルが新潟で開催された折には、ご実家の2階に選手全員を泊めてくださった。また、文京区音羽のご自宅へお正月にご招待くださったこともある。先生というより頼りがいのある兄貴分といった親しみがあった。

 学部に進級したもののそこには道場はもちろん体育館もなかった。そこで空手部にお願いして同部が当時屋上にもっていた1辺10m弱の四角形の板張りを練習場とした。その後、同じ屋上の少し離れた矯正科研究室の前にあったほぼ同じ大きさのリノリウム張りの専用練習場を手にした。嬉しかったのは床が簀の子でなくその全面が塞がっていたこと、そして夜間でも明るく照らす照明が2灯あったことである。そして間もなく、中庭にあった解剖実習室が柔道部・卓球部・剣道部の練習場に改修された。つまりは屋根のある(雨でも稽古のできる)練習場を手にした。これらの大変革に力を貸してくださったのが山本先生だった。感謝の念でいっぱいである。中庭の改修された練習場で山本先生と竹刀を交えたのも懐かしい思い出である。当時40歳になられた先生は、動きに動く、一所に留まることのない元気一杯の剣道をなさった。

 

「先生、ありがとうございました!」と言うと、「おぅー」と応えてくださった』

 その先生が96歳の天寿を全うされ、音羽町に近い小石川墓陵での「お別れの会」の中央でうすいピンク色のいくつもの花籠に囲まれて静かに笑っていらした。「先生、ありがとうございました!」と言うと、「おぅー」と応えてくださった。すぐ傍に設えられた思い出の品々の中に昭和41年7月、富士山のふもと山中湖畔での夏合宿でジャングルジムに上って全員で撮った先生を中心とする大きなゝ写真があった。合掌

(令和4年3月記)

2022年3月5日 山本肇先生お別れの会

山本肇先生と東京医科歯科大学剣道部(福島俊士先生作成)